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移転のご挨拶

移転のご挨拶

このたび弊社は移転し業務を行うことになりました。
移転先は、500年の歴史をもつ「史跡・名勝 常栄寺雪舟庭」の敷地内に隠寮・わきでら として建立された築100年を超える古民家です。
KIZUKIplanningの“建築知識”と“匠の技術”。そして“真心”を集結させリノベーションさせていただきました。
これを機に社員一同さらに専心努力し皆様のご期待にお応えする決意です。まずは略儀ながらご報告かたがたご挨拶申し上げます。
お近くにお越しの際はお気軽にお立ち寄りくださいませ。

◎新住所:山口市宮野下1998番地1
(常栄寺雪舟庭の看板の通りにお越しください)

【常栄寺の歴史について】

常栄寺 雪舟庭は大内政弘(おおうちまさひろ)が別邸として建てたもので、庭は雪舟に命じて築庭させたといわれています。
※大内政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強勢を誇っていた。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。)

康正元年(1455)、政弘の母、妙喜寺殿宗岡妙正大姉(みょうきじでんそうこうみょうしょうだいし)の菩提を弔(とむら)うために別邸を寺とし「妙喜寺(みょうきじ)」としました。

一方、常栄寺は毛利元就(もとなり)が長男隆元(たかもと)の菩提を弔うために永禄6年(1563)、高僧竺雲彗心(じくうんえしん)を開山として、安芸(広島)吉田の郡山(こおりやま)城内に建てられました。洞春寺(とうしゅんじ)も妙寿寺(みょうじゅじ)も郡山城内に建てられた寺です。
※毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将・中国地方(山陽道・山陰道)の武将・大名。毛利氏の第12代当主。安芸吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ヶ国を支配する太守へとのし上がった。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられている。

毛利氏は関ヶ原の戦いで豊臣方に与(くみ)したので、その領国を削られ萩に移封されました。

萩への入城準備を控え、まず山口に入り、常栄寺を慶長年間(1596~1615)に国清寺(こくしょうじ)(現在の洞春寺の地にあった寺)に移し合寺しました。洞春寺は萩に移り、毛利隆元の夫人・妙寿寺殿仁英妙寿大姉(みょうじゅじでんえいみょうじゅだいし)の菩提寺「妙寿寺」は妙喜寺に移り、合寺しました。

さらに文久3年(1863)、毛利敬親(たかちか)が本拠を萩から山口に移した時に、伽藍のみ洞春寺に譲り、常栄寺は現在の地に移り妙寿寺と合寺しました。ちなみに、山号は国清寺の山号「香山(こうざん)」を踏襲し、「常栄寺」は隆元の法名、常栄寺殿花渓常栄大居士(じょうえいじでんかけいじょうえいだいこじ)によります。

大正15年(1926)2月24日付で常栄寺庭園は国の史跡・名勝に指定されましたが、同年5月3日昼、民家の火事による類焼で鐘楼門と宝蔵を残してことごとく焼失しました。創建以来3度目の焼失でした。幸い歩兵第四十二連隊の応援を得て本尊を始めとする諸仏・宝物・文書類は搬出されました。

本堂が再建されたのは昭和8年(1933)の事です。さらに諸堂の建立整備は昭和27年(1952)、常栄寺二十世 安田天山(てんざん)老師の晋山(しんざん)(住職就任披露)後のことです。実に復興まで四十数年間を要しました。

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